Still Life2015/06/30


 28日(日)、またまた女房と映画を観に行ってきました。

今回観たのはイギリス、イタリア合作の 「Still Life」 です。

「おみおくりの作法」 などという陳腐な邦題がついていて残念です。




評価としては感動的といった声が多い映画のようですが、僕は感動より悲しさを

感じました。 

不条理なのだけれど救いがある、という意味で感動的なのかもしれません。

しかし、ネタバレになるので細かく記しませんがこの映画を観た人がエンドロールを

見つめながら感じる気持ちというのは、そのそれぞれの宗教観によって大きく

違うのではないか、と思うのです。

救いがあってよかったね、というのはあくまでもひとつの宗教観からのものであって、

結局のところ彼は報われなかった、という見方をする人がいても不思議では

ありません。 どちらかというと不信心な僕もそちら側の人間です。

となると、この映画の作り手は観客に対して伝えたいことを伝えることに成功した

のか?という疑問が起こってくるわけです。

しかしもちろんそんなことはわかりきっていてなお主人公の最後をどうとらえるかは

観客の判断に任せる、という意図なのかもしれませんね。 どちらにせよいろいろと

考えさせられる映画でした。


 この映画に限らず、最近映画を観た後は帰宅してからwebのレビューサイトを

開いて、映画を観た他の人がどんな感想を持ったかなどの投稿を読むことに

しています。 その結果あらためて強く感じていることなのですが、たとえばある

ひとつのシーンについて、解釈はこれ以外考えられない、と僕が考えていたものに

ついてまったく違った見方をしている人がいる、ということが多々ありその事実に

少なからず衝撃を受けています。

強く感じている、というのはつまりこの経験から他人と理解しあうということはとても

むつかしいことなのだな、ということです。

自分の常識が同じく他人の常識ではない、ということをまたまた思い知らされている

今日のこの頃です。良いか悪いか、ではなくそういうものなのだということはしっかり

理解しておかないといけないことだと思っています。